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京都地方裁判所 平成10年(ワ)2618号 判決

原告

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

三重利典

中田良成

被告

京都府

右代表者知事

荒巻禎一

右訴訟代理人弁護士

置田文夫

右指定代理人

後藤廣生

外二名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

一  被告は、原告に対し、金一〇〇万円及びこれに対する平成一〇年八月二〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二1  (主位的)

被告は、原告に対し、平成一〇年八月二〇日京都府中立売警察署が採取又は撮影した被告の保管する原告の指紋が印刷された指紋原紙、指紋票及び一指指紋票、原告の掌紋が印刷された書類並びに原告の肖像が撮影されたネガフィルム及び写真一切を引き渡せ。

2  (予備的)

被告は、原告に対し、右1(主位的)記載の資料等を廃棄せよ。

第二  事案の概要

本件は、交通検問で実施された飲酒検知(呼気検査)の結果、酒気帯び運転の罪により現行犯逮捕された原告が、逮捕した京都府警警察官の属する被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、不法行為(違法逮捕)による損害賠償について一部請求するとともに、右逮捕及び引き続き行われた捜査によって、原告の指紋肖像等の個人情報が違法に取得されたと主張し、人格権侵害に基づき右情報の引渡しないし廃棄を請求した事案である。

一  争いのない事実等

1  平成一〇年八月一九日午後一〇時から翌二〇日午前二時までの予定で、京都府警中立売警察署の警察官が、京都市中京区寺町通〈番地略〉路上(以下「本件現場」という。)において、呼気検査による酒気帯び運転等の取締り(いわゆる飲酒検問)を行っていた。

2  同月二〇日午前〇時五分頃、原告が、本件現場を普通乗用自動車(以下「原告車両」という。)を運転して通りかかったところ、警察官から呼気検査を求められた。

3  午前〇時二〇分頃、原告に対するSD型(いわゆる北川式)飲酒検知器による呼気検査(以下「飲酒検知」という。)が行われた結果、警察官は、原告に酒気帯び運転の疑いがあると判断し、原告に対し、右検知管を所定の封筒へ封印するため署名・割印(指印)を求めたが、原告はこれを拒否した。その後の午前〇時四九分頃、警察官は、原告を酒気帯び運転の罪の現行犯で逮捕(以下「本件逮捕」という。)するとともに、同人を中立売署に連行した。

右連行後、原告に対する弁解録取書と供述調書が作成され、原告は留置場に留置された。そして、同日午後から、本件現場において実況見分が行われ、右終了後、原告に対する指紋採取と写真撮影とが行われ、原告は、同日午後五時二八分に釈放された。

二  争点

1  本件逮捕の適法性

2  原告の損害額

3  人格権に基づく引渡請求の可否(指紋等個人情報の返還ないし廃棄義務の有無)

第三  当事者の主張

一  争点1(本件逮捕の適法性)に対する主張

1  原告の主張

(一) 本件における犯罪の明白性の欠如

(1) 逮捕は、被疑者の身体を拘束するという重大な人権制約であるから、本来裁判官の発布した逮捕状を得てから行われなければならないのが原則である。しかし、現行犯逮捕が例外的に無令状でも許されている趣旨は、犯罪及び犯人が客観的に明らかであって、無実の者を誤って逮捕するという公権力の不法な行使のおそれがないという点にある。したがって、現行犯においては、犯罪の明白性及び犯人の明白性が逮捕要件となる。

(2) 道路交通法は、「何人も酒気を帯びて車両等を運転してはならない。」(同法六五条一項)と定める一方、酒気帯び運転行為のうち犯罪に当たるのは、いわゆる酒酔い運転の罪(同法一一七条の二第一号)を除いては、「身体に政令で定める程度以上にアルコールを保有する状態にあった。」場合(同法一一九条一項七号の二)である。そして、同号を受けた政令により、呼気一リットル中0.25ミリグラム以上のアルコールを体内に保有して車両等(軽車両を除く)を運転した行為が酒気帯び運転罪の構成要件とされている(道路交通法施行令四四条の三)。

(3) 原告は、警察官によって、酒気帯び運転の罪で現行犯逮捕(本件逮捕)されているが、本件逮捕が適法であるためには、現行犯逮捕の要件たる犯罪の明白性、すなわち、原告が呼気一リットル中0.25ミリグラム以上のアルコールを体内に保有していた事実が客観的に明白であることが必要とされる。しかしながら、原告に対する飲酒検知の結果は、0.25ミリグラム(呼気一リットルにつき0.25ミリグラム。以下、単位を省略する。)の目盛りに達するか否かのぎりぎりの数値を示していた。そうすると、検知管の使用方法に伴って生じる誤差を考慮すれば、原告が酒気帯び運転の罪を犯したか否かについて、客観的に明白であるとはいえない。このことは、警察官が、一回目の飲酒検知の後に、原告の求めに応じて再検査に同意していたことからも窺うことができる。

(4) 検知管に印刷された濃度目盛りは、温度が摂氏(以下、同じ。)二〇度を基準にして作られており、二〇度以外の温度で測定を行ったときは温度に応じて数値を補正しなければならないというべきである。すなわち、その補正方法は、温度が二〇度より上になればなるほど二〇度を基準にした目盛りより多めの数値を示すので、その目盛りより少なく補正し直さなければならないのである。

そうすると、仮に本件において、被告主張のように検知管の測定数値が0.25を超えていたとしても、本件逮捕時の気温である二七度により補正すれば、右測定数値は0.25をぎりぎり超えていたという程度のものであったから、これを基準にすれば、右数値が0.25を超えていたということはできず、犯罪の明白性は認められないはずである

(二) 逃亡のおそれ、罪証隠滅のおそれの不存在

(1) 身体の自由を強制的に拘束する点で、通常逮捕と現行犯逮捕との間で異なるところはなく、現行犯逮捕においても逮捕の必要性は要件とされるべきであり、しかも、逃亡のおそれ及び罪証隠滅のおそれとは、具体的現実的なものであって、決して抽象的なものでは足りない。特に、交通犯罪では、逃亡や罪証隠滅のおそれが具体的にあるのかについては、より厳格に検討すべきである(刑訴法二一七条参照)。

(2) 原告は、両親とともに前記肩書住所地において居住しており、京都市東山区内でイタリアンレストランを経営している者である。このように、生活状態も極めて安定している原告が、高々数万円程度の罰金を逃れるために両親との生活をなげうち、レストラン経営を放棄してまで逃亡するとはおよそ考えられない。

また、原告は、飲酒検知の前に、警察官らに対して免許証及び外国人登録証を交付しており、原告の逃亡は更に困難である。加えて、原告は、本件逮捕に至るまでの間、交通取締用警察車両(以下、便宜上「キャラバン」という。)の中で警察官らの指示に従っていたものである。

(3) 本件で、原告が酒気帯び運転の罪を犯したとされる罪証は、飲酒検知管と警察官の供述であるところ、それらはいずれも警察官らが有しており、一私人である原告がそれらに対して隠滅工作を謀るなどありえないことである。

(4) なお、原告は、検知管を密閉する封筒に対する署名・割印を拒否しているが、そもそも署名・割印は、本人の了解を得た上で任意になされるべき性質のものである。そして、そのような署名・割印がなくても、警察官の供述ないし捜査報告書によって補強すれば、その証明力は何ら減少しない。

(5) 本件のような交通法令違反事件は、日常生活に直結し、一般市民が経験しやすい犯罪であり、かつ、形式犯であり、その罪質も比較的軽微なものが多い。したがって、交通法令違反で、被疑者を逮捕する場合は、一般の犯罪の場合に比べても、とりわけ慎重な態度で臨むことが要請される。犯罪捜査規範二一九条が、「交通法令違反事件の捜査を行うに当たっては、事案の特性にかんがみ、犯罪事実を現認した場合であっても、逃亡その他の特別の事情がある場合のほか、被疑者の逮捕を行わないようにしなければならない。」と規定するのも、その趣旨である。

したがって、交通法令違反事件においては、被疑者が取調べに対して反抗的であるとか、違反の事実を否認しているだけで、警察官が安易に被疑者を現行犯逮捕することは許されないのであって、被疑者において罪証隠滅のおそれあるいは逃亡のおそれがあり、そのおそれが具体的かつ厳格に認定できる場合に初めて、警察官は、交通法令違反事件について、被疑者を現行犯逮捕することができると解すべきである(京都地裁昭和五九年一一月二九日判決、大阪高裁昭和六〇年一二月一八日判決参照)。

(三) 本件逮捕の恣意性(比例原則違反等)

(1) 酒気帯び運転の罪に対する宣告刑はほとんどが罰金刑であり、そのような軽微な犯罪について、罪証隠滅及び逃亡の防止という目的と、身柄確保という手段を比較すると、本件逮捕は明らかに「比例原則」に反するものである。

本件逮捕は、飲酒検知管を密閉する封筒に署名・割印することを拒否した原告に対し、「素直さを欠く。」と判断した警察官らが、警察の威信を示さんがために、見せしめ及び報復を目的として行った不当逮捕である。

(2) 市民的及び政治的権利に関する国際規約の九条一項二文は、「何人も、恣意的に逮捕され又は抑留されない。」と定めており、この「恣意的」とは、逮捕又は抑留の「必要性」又は「合理性」を欠くことを意味する。

まず、「必要性」とは、逃亡のおそれと罪証隠滅のおそれを指すが、本件逮捕がこれらをいずれも満たさないことは前述のとおりである。

次に、「合理性」を欠くとは、「正義に反すること」「相当性を欠くこと」「予測可能性を欠くこと」を意味し、さらに、「比例原則に反すること」を意味するのは、国際的な基準でもある(甲一ないし甲四の「外国裁判例」及び甲五「注釈書」参照)。

そもそも、警察の捜査に対して協力的ではないからといって、これを理由に身柄拘束することは正義に反する上、実質的には軽微な犯罪である酒気帯び運転の罪の被疑事実において、被疑者の身柄を拘束するには、比例原則上、重大事件に比してより一層の逃亡のおそれ又は罪証隠滅のおそれを要するのは当然である。

酒気帯び運転の罪の宣告刑はほとんどが罰金刑であり、それ自体軽微なものであることは明白であるところ、仮に、本件において原告に酒気帯び運転の罪が成立するとしても、犯罪成立の下限ぎりぎりにすぎなかった。

このような軽微な犯罪についての逃亡と罪証隠滅の防止という目的と原告の身柄拘束という手段の両者を比較すると、逮捕を行うことがあまりにその手段として大きすぎることは明らかである。そうすると、本件逮捕は、比例原則に反しており、恣意的な逮捕であったというべきである。

2  被告の主張(本件逮捕の適法性)

(一) 原告の酒気帯び運転の罪の嫌疑は明白であった。

原告は、実際には酒気帯び運転をしておきながら、それを否定して飲酒検知を当初拒否し、さらに、右検知では、正確な数値が検出されるのを恐れ、呼気を採取するためのポリエチレン製の風船(以下「風船」という。)への呼気の吹き込みについても警察官の指示に素直に従わなかった。

(二) 本件現行犯逮捕直前の経緯及び事実関係によれば、本件現行犯逮捕の必要性は認められ、相当な事情聴取及び捜査を行う目的の点においても合理的である。

すなわち、原告は、検知管の変色及び検知結果の測定数値を素直に認めず、右検知管を保管して密閉するための封筒への署名・割印を拒否し、供述調書の作成をも拒否した。さらに、嫌疑を否認して本件現場からの離脱を図ろうとした。

検知管の測定数値は0.25を超えており、犯罪の嫌疑は明白であった上、原告の右行動からすれば、逃亡、口裏合わせ等のアリバイ工作のおそれが認められ、現行犯逮捕について合理性が存したというべきである。

道路交通法六五条一項、一一九条一項七号の二が定める酒気帯び運転の罪に対する法定刑は、三か月以下の懲役又は五万円以下の罰金であり、軽微な犯罪ではない。飲酒運転は、いわゆる「交通三悪」の一つであり、取締の必要性は大である。右のような事情に照らせば、本件逮捕が警察官の不合理・恣意的な意図によって行われたものであるとはいえない。

(三) 現行犯逮捕においても逮捕の必要性が要件になっている趣旨の判例は多数に上ること、及び交通犯罪では逃亡や罪証隠滅のおそれが具体的にあるのか特に厳格に検討すべきであるとの主張は、いずれも争う。

二  争点2(原告の損害額)に対する主張

1  原告の主張

(一) 原告は、本件逮捕により両親との連絡も取れず、生まれて初めて警察官に手錠をかけられ、留置場に身柄を拘束されて心細い一夜を過ごした。また、夜が明けてからは、警察官に取調べを受けたり、実況見分に立ち会わされたり、指紋・掌紋採取や写真撮影されるなど、罪人同様の仕打ちを受け、多大な屈辱感を味わわされた。そして、この違法逮捕により、原告は、自ら経営する店舗のための予定や新しく開店する店舗のための打ち合わせをキャンセルせざるを得ず、信頼を失った。

このように、違法な本件逮捕によって原告が受けた精神的損害は他人には計り知れないほど甚大なものであるが、慰謝料としては、金額に換算すると一〇〇万円を下ることはない。

(二) 本訴請求

よって、原告は、被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、慰謝料の一部請求として、金一〇〇万円及びこれに対する本件逮捕の日である平成一〇年八月二〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

2  被告の主張

争う。

三  争点3(人格権に基づく引渡請求の可否)に対する主張

1  原告の主張

(一) 個人の人格権は、憲法一三条で保障されているが、その人格権の内容としては、自己の個人情報をコントロールする権利が含まれている。

(二) 指紋及び掌紋は、ひとりひとり異なり、終生不変という特質上、個人を特定する最も有力な情報の一つであり、また、肖像も個人の容貌が視覚的に現われた個人を特定する最も有効な情報の一つである。

(三) 右(一)の権利は、単なる自由権と解するべきではなく、直接的な支配権である。それゆえ、その直接支配が違法に侵害されたときは、物権的請求権と同じく、個人情報の返還又は廃棄を求める請求権が発生すると解すべきである。

(四) 本件においては、違法な現行犯逮捕に引き続いて、原告に対する指紋・掌紋の採取及び肖像の撮影(写真撮影)が行われた。原告は、違法な本件逮捕がなければ、このような個人情報を被告に取得されることはなかったのである。したがって、指紋・掌紋・肖像に関する情報の直接支配権が、被告によって違法に侵害されている。

(五) 本訴請求

したがって、原告は、被告に対し、憲法一三条で保障された個人情報をコントロールする権利に基づき、平成一〇年八月二〇日京都府中立売警察署が採取又は撮影した被告の保管する原告の指紋が印刷された指紋原紙、指紋票及び一指指紋票、原告の掌紋が印刷された書類並びに原告の肖像が撮影されたネガフィルム及び写真一切の引渡しないしそれらの廃棄処分を求める。

2  被告の主張

原告の主張は争う。

個人の人格権が憲法一三条で保障され、その人格権の内容として、自己の個人情報をコントロールする権利が含まれているとしても、右権利が「直接的支配権」であり、直ちに物権的請求権と同様、個人の情報の返還又は廃棄を求めることができるとはいえない。

また、個人の有する自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけではなく、公共の福祉のために必要がある場合には、相当の制限を受けることは憲法一三条の規定に照らして明らかである。そして、犯罪を捜査することは、公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであり、警察にはこれを遂行すべき責務がある(警察法二条一項参照)。

本件逮捕後、警察官は、原告に対し、明確な法令上の根拠(刑訴法二一八条二項、犯罪捜査規範一三一条一項)をもとに指紋の採取及び写真撮影を行っており、他方、右根拠に基づいて取得された指紋及び写真を返還又は廃棄すべき明確な法令上の根拠は存しない。仮に、本件逮捕が違法であったとしても、国家賠償法に基づく損害賠償義務の有無が問題となるのみであり、個人情報の返還又は廃棄までを求めることができる請求権が発生するものではない。

第四  当裁判所の判断

一  事実経過

前記争いのない事実等に加え、証拠(甲六、一〇、乙一、二、三、証人蓮井和昭、証人嶋田濶、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

1  平成一〇年八月二〇日午前〇時五分頃、京都府警中立売署の蓮井和昭警部補(以下「蓮井警部補」という。)、吉岡務警部補、塚本敏夫巡査部長(以下「塚本巡査部長」という。)、笠松隆志巡査(以下「笠松巡査」という。)ら「四名の警察官(以下「警察官」という。)は、本件現場において飲酒運転の取締りを行っていたところ、原告が、原告車両を運転して本件現場にさしかかった。

そこで、蓮井警部補が、棒電池及び停止旗(検乙一、二)で原告車両を停止させ、原告に対し、「中立売署です。飲酒検問中です。」と告げた。

2  すると、原告車両の運転席から強い酒臭が漂ってきたので、蓮井警部補は、原告に対し、「酒の臭いがする。酒を飲んでいませんか。」と尋ねたところ、原告は、「飲んでいない。」と答えた。

3  そこで、蓮井警部補は、原告に顔を近づけ、「(私に向かって)息を吹きかけて下さい。」と告げたところ、原告は、かすかに息を吐き出すのみで、呼気の酒臭を判断することができなかった。

蓮井警部補は、原告の態度及び原告車両内の酒臭から、酒気帯び運転を疑って検知の必要性があると判断し、原告に対して「今から飲酒検知を行います。原告車両をキャラバンの後ろに移動させて下さい。」と告げるとともに、塚本巡査部長に対し、飲酒検知の準備をするよう指示した。

4  蓮井警部補は、原告に対し、運転免許証の提示を求めた後、「今から飲酒検知を行いますから、車から降りて下さい。」と告げたが、原告は、「飲酒していないから降りない。」「次の店に行くので急いでいる。」などと答え、原告車両から降りようとしなかったので、蓮井警部補は、約五分間、原告を説得した。

5  同日午前〇時一〇分過ぎ頃、ようやく、原告が説得に応じ、原告車両から降りたので、蓮井警部補は、原告に対し、飲酒検知の方法を説明していると、原告は、「酒は飲んでいない。」「飲んでいないから検査する必要はない。」「(飲酒検知のための)風船も吹かない。」「次の店へ行くのに急いでいるから、もう行く。」などと述べて、飲酒検知になかなか応じようとしなかった。

6  その後も蓮井警部補が説得を続けたところ、原告は、ようやく飲酒検知に応じるような態度を示したので、同警部補は、原告に水の入ったコップを渡し、「これでうがいをして下さい。」と告げたが、原告は、「飲んでいない。」「次の店に人を待たせてあるので行かんならん。」などと述べて、うがいをしようとしなかった。そこで、蓮井警部補は、さらに、約七、八分ほど原告に対して説得を試みた。

7  結局、説得に応じた原告がうがいをしたので、蓮井警部補は、原告に風船を手渡し、「風船に息を一杯吹き込むように。」と指示したところ、原告は、「飲んでいないのに(酒気を示す数値が)出るはずがない。」などと述べて、呼気を風船に吹き込もうとしなかった。そのため、蓮井警部補はさらに説得を行い、その結果、原告は風船に呼気を吹き込み始めた。

8  ところが、原告は、風船の吹込口を人差指と親指で持ち、口と吹込口を密着させない状態で、弱い呼気を小刻みに吹き込んでいたので、蓮井警部補は、「息を一気に吹き込むように。」と指示したが、原告は右指示に従わず、弱い呼気を小刻みに吹き込み続けた。

9  やがて、風船に約八割くらい呼気が入った時点で、蓮井警部補は、風船を原告から受け取り、原告の目の前で、風船を検知管及び吸引ポンプにセットして検知を行った(乙六、四・五頁参照)。右検知の結果、蓮井警部補の判断では測定数値は、0.25から0.3の間を示した(右検知管を、以下「本件検知管」という。)。

10  蓮井警部補は、本件検知管を原告に見せて、右測定数値を確認するよう告げたところ、原告が「0.25も変わっていない。」「飲んでいないのに、(酒気を示す数値など)出るわけがない。」などと述べて、確認をしようとしなかったため、塚本巡査部長と笠松巡査に測定数値が0.25を超えていることを確認してもらった。

11  塚本巡査部長は、原告がアルコールの影響により、正常な運転ができないおそれがあるかどうかを判断するため(酒酔い運転か否かの認定)、酒酔い・酒気帯び鑑識カード(乙三)記載の各項目について調査した。

まず、原告の答えるところでは、飲酒場所は「自分の店」、酒類は「ワイン」、飲酒時刻は「一時間ぐらい前」等々というものであり、次に、歩行状態及び直立能力を調べるために、原告にキャラバンから降りるよう指示した。原告の歩行状態及び直立能力はいずれも正常であった。

12  引き続いて、同日午前〇時三〇分頃、蓮井警部補は、原告に対し、飲酒の具体的内容について質問したところ、原告は、「ワインを少し飲んだだけや。」「次の店に行く途中や。急いでいる。」「勝手に酒気帯びと決めつけるな。」などと述べた。

さらに原告は、「もう一度調査しろ。」「もう一回測れ。」などと訴えるので、蓮井警部補はやむなく風船を渡し、「証拠になるのは一回目の検査結果であるが、そんなにやりたいなら試しにやればよい。今度は一気に息を吹き込むように。」と告げた。ところが、原告は、一回目の呼気検査と同様、小刻みに弱い呼気を吹き込むばかりであったので、蓮井警部補は「もういい。」と告げて、途中で原告から風船を取り上げた。

13  この後、蓮井警部補は、原告に対し、「(本件)検知管を所定の封筒に入れて保管するので、封筒の表に署名し、糊付け口のところに割印をして下さい。」と告げたところ、原告は「(酒は)そんなに飲んでいない。」「次の店に行かんならん。」などと繰り返し述べて、署名と割印を拒否した。

14  次に、蓮井警部補は、原告に対し、「飲酒運転を認める認めないは、あなたの自由ですが、今から酒気帯び運転に関する事情を聴き、供述調書を作成するので、協力して下さい。」と告げるとともに、塚本巡査部長に取調べを行うよう指示して、キャラバンから下車した。

すると、原告は、「そんなの認められん。」「次の店に行く。」と声を張り上げ、突然キャラバンから下車し、既に下車していた蓮井警部補の脇を通り抜け、原告車両の方に立ち去りかけた。

これを見て、蓮井警部補は、「おい、どこへ行くんや。」と原告に声をかけたが、原告はこれを無視して歩き続けた。

15  そこで、蓮井警部補は、酒気帯び運転の罪に関し、原告に「逃亡のおそれ」及び「罪証隠滅のおそれ」があるものと判断し、急いで原告に近寄り、原告に対し、「酒気帯び運転の現行犯として逮捕する。」と告げ、本件逮捕に至った。

16  蓮井警部補は、無線でパトカーを呼び寄せ、午前一時頃、原告を中立売署に連行し、弁解録取書と供述調書を作成するとともに、原告に対し、再度本件検知管の測定数値を確認させたところ、原告は、同数値が0.25を超えていることを認め、本件検知管入りの封筒に署名・割印をした。その後、原告は、同署の留置場に留置された。

17  同日午前一〇時五分頃から、原告立会いの下、本件現場において実況見分が行われた。同日午後一時二〇分頃から、原告に対する取調べが行われ、捜査官が本件検知管の入った封筒を示したところ、原告は、捜査官に対し、「封筒に入った本件検知管は本件現場において原告に対する飲酒検知に用いられたものであり、本件現場では測定数値が0.25を超えていることを認めなかったが、中立売署に連行された後、再度確認したところ、0.25を超えていることを認めたものであり、原告が酒気帯び運転の罪を犯したことは間違いない。」旨の供述を行った。

18  原告に対する取調べは午後五時前頃終了し、原告に対する指紋採取及び写真撮影が行われた後、同日午後五時二八分、原告は釈放された。

二  事実認定の補足

1  本件逮捕に至る経過については、担当の警察官であった蓮井証人の供述及びその陳述書(乙一)に記載の内容(以下、併せて「蓮井証言」という。)と原告本人の供述及びその陳述書(甲六)記載内容(以下、併せて「原告本人供述」という。)は、その根幹において随所で異なっている。すなわち、蓮井証言の要旨は、「当初、原告は飲酒事実と検知の必要性、その後、飲酒検知の結果の数値をも否定して封筒への署名、封印を拒絶し、鑑識カードの作成時点になって初めてコップ一杯のワインの飲酒を認めたにすぎず、調書の作成にも応じようとしないで現場離脱を謀った。」というものであるのに対し、原告本人供述の要旨は、「当初から警察官の指示どおり飲酒検知に応じており、ことさら飲酒事実を否定したり、その場から離脱を謀ろうとするような言動もしていないのに、わずかに検知管を保管する封筒への署名・割印を拒絶したのみで逮捕された。」というものである。

2  しかしながら、原告本人供述の内容は事実関係のすべてを語るものとは容易に考え難く、一の認定に反する部分は採用することができない。

先ず第一に、原告は「一回目の飲酒検知の際に、蓮井警部補が風船を検知管につないでいる間に、同警部補からどういう風な感じで酒を飲まれているかと聞かれ、そのとき、初めて自分が店の方でテイスティングしていたということに気付き、業務で……と説明した。」と供述している。しかしながら、飲酒運転に対する社会の非難が高まって久しく、警察官による取締りも厳しくなっている昨今、多少なりとも飲酒して車両を運転することの後ろめたさや、検問による検挙の可能性は誰しも脳裏をよぎるのが通常の人間心理であるのに、しかも、実際に検問にあって飲酒検知までしながら、その段階で初めて飲酒していた事実を再認識したとする供述内容は不自然極まりない。また、飲酒検問で運転席付近で酒臭が漂っている場合には、警察官としては先ずもって運転者に飲酒の有無を尋ねるのは飲酒検問に不可欠であるところ、原告が右の段階まで飲酒事実を申告していないというのは、警察官らから飲酒の有無を問われたのに否定していたことを端的に示しているというべきである(原告が黙秘した事実は双方とも主張しないし、そのような事実を認めるに足る証拠はない。)。これに対し、蓮井証人は、「原告は、当初から繰返し飲酒事実を否定し続け、鑑識カードの作成時点になって初めてワインの飲酒を認めた。」旨証言しており、自然な供述内容となっている。

第二に、原告は「第一回目の検知の際、風船のストローがかなり細くなっていて息を吹き込み難く、自分の意識の中で息を吹き込める量を吹き込んだ。第二回目も同様だった。蓮井から『こんな膨らまし方ではあかん。』といわれた。一気にとうてい吹き込めるものではないと思っていた。」と述べている。そして、この点は、蓮井証言に「一気に膨らまして下さいよと原告に言ったのに、ふっ、ふっと軽い息を何回もやるわけです。」とあるのと外形的に一致している。しかし、証拠(検乙六)及び弁論の全趣旨により明らかなごとく、風船に呼気を吹き込むストローは通常の飲酒検知の際に何人にも用いられているものであって、原告がいうように物理的に息を吹き込み難いというようなものではない。しかるに、原告が、二度にわたる飲酒検知において、「意識の中で吹き込める量を分けて吹き込んだ」とする弁解は、むしろ、意図的に一吹き当たりの量を加減していたことを推測せしめるものであり、ここでも風船への吹き込み方が不自然であるとする蓮井証言の方が客観的事実に合致するといわねばならない。

第三に、原告本人供述によれば、原告は一九七〇(昭和四五)年八月二三日生の韓国籍の男性であるが、その本人供述において、「前記経過で二度目の飲酒検知を中止させられた時点ないし歩行検査を指示された時点で『国籍が違うことでこのような不当な対応を受けるのか。』と問い質した。」旨を述べている。しかし、前記のような事実関係の流れの中で見る限り、右のような問題提起の仕方をする原告の態度はにわかに理解し難い。酒気帯び運転の罪が疑われ、先のように、原告の請求で実施された二度目の飲酒検知であってみれば、真摯に検知に応じるのが当然であるのに、第二に指摘したような検知態度では真実を発見することなど到底及ばないところであり、これを中断されたことが国籍による差別問題と捉える原告の言動は、基本的には「警察官の指示どおりに協力した」との全般的な原告本人供述の信用性を減殺しているものといわねばならない。

以上の検討の結果、事実に関しては蓮井証言が筋が通っており、原告本人供述のうち、前記認定事実に反する部分は採用することができない。

三  争点1(本件逮捕の適法性)について

1  まず、原告が、酒気帯び運転の罪を犯した者として明白であったか否かを検討する。

(一) 前記認定事実によれば、検知管の検査結果は、0.25から0.3の目盛りの間を示す反応が出ていたことは明らかであり、原告も、その後の警察での事情聴取においてこれを認めていたことが認められる。

そして、前記認定事実に現われているとおり、飲酒検知における原告の呼気採取時の態度や供述の変遷等にかんがみれば、原告が酒気帯び運転の罪を犯していたことの嫌疑は明白であったといわざるを得ない。

したがって、現行犯逮捕を行うに当たり、原告に対する犯罪嫌疑の明白性において、何ら要件に欠けるところはなかったというべきである。

(二) 原告は、仮に、本件検知管の測定数値が0.25を超えていたとしても、本件逮捕時の気温は二七度であったのであるから、数値を補正しなければならないところ、補正した数値を基準にすれば、右数値が0.25を超えていたということはできず、犯罪の明白性は認められないはずである旨主張する。

しかし、逮捕において要求される犯罪の明白性とは、有罪判決をするのに比肩すべき客観的明白性を指すわけではなく、通常人の見地から被逮捕者が当該犯罪を犯したものと疑うに足りる相当な理由が認められることを意味するものと解するのが相当である(刑訴法一九九条参照)。そして、証拠(乙六)によれば、飲酒検知器のメーカーないし販売会社の使用説明書には、「濃度の目盛の読みが0.5以下の濃度では温度補正の必要がありません。」と指示していることが認められるところ、本件においては、前記認定のとおり、本件検知管の目盛りは、0.25から0.3の間の数値を指していたことは明らかであったというのであるから、原告の右主張を根拠に、本件で犯罪の明白性を否定することはできない。

2  続いて、現行犯逮捕の必要性の要否について検討する。

現行犯逮捕も、人の身体に対する強制処分としての物理的拘束であるから、その必要性がある場合にのみ認められるのは当然である。そして、右にいう逮捕の必要性とは、通常逮捕及び緊急逮捕における場合と同様、当該逮捕行為の時点において、被疑者に「逃亡のおそれ」ないし「罪証隠滅のおそれ」が存すると認められることを意味すると解するのが相当である(刑訴規則一四三条の三参照)。

加えて、交通事件においては、同種事犯を大量かつ迅速に処理すべき必要性がある一方、他方で、日常生活に直結する問題が多く、かつ罪質的にも軽微なものが少なくないことから、逃亡その他特別な事情のある場合のほかはできる限り逮捕を行わないよう処理すべきと解するのが相当である(犯罪捜査規範二一九条参照)。但し、交通事犯といっても、その犯罪態様、法定刑、処分方法、交通事故に至る危険性の大小、当該犯罪に対する社会的認識は様々であることも当然念頭におくべき必要がある。

3  そこで、本件事案の特性を考慮しつつ、まず、逃亡のおそれに先立ち、罪証隠滅のおそれについて判断する。

(一)  捜査における採証活動は、少なくとも構成要件該当事実につき、公判審理に耐えられるだけの証拠収集を目的とするものであるから、逮捕時における罪証隠滅のおそれの有無を検討するに当たっては、まず、当該犯罪の類型に即し、①罪証隠滅の対象事実、②隠滅の方法・態様、③隠滅の意図、④隠滅された場合の影響に加え、⑤初期の段階に行っておくべき捜査の内容・程度(初期捜査の必要性、重要性)等を総合勘案すべきである。

これを本件についてみるに、そもそも酒気帯び運転の罪は、道路交通法六五条一項、一一九条一項七号の二、同法施行令四四条の三において、「血液一ミリリットルにつき0.5ミリグラム又は呼気一リットルにつき0.25ミリグラム以上のアルコールを保有しながら車両等を運転した場合に成立する」旨規定されているが、血液の採取に比し、呼気の採取が手続的にも、技術的にも簡易迅速に行われることから、右罪を巡る公判審理においては、通常、右の数値を客観的に表示する科学的証拠として、飲酒検問時の運転者の呼気検査による飲酒検知器の表示した数値が中心的証拠となること、及び本件では、警察官の説得によって、一応原告に対する飲酒検知が実施され、同時に、警察官が右数値を確認していることからすれば、基本的な科学的証拠と人証が捜査官側に獲得された結果、前記①ないし⑤の諸点を考慮しても、もはや原告による実効ある罪証隠滅のおそれは否定されるとの見方もできないではない。

(二) しかしながら、右の諸点を考慮しても、本件逮捕時において警察官が、原告において罪証隠滅のおそれがあると判断したことが違法とは考え難い。

(1) 唯一の前記数値の科学的立証手段としての原始記録ともいうべき飲酒検知器に表示された数値は時間の経過とともに変化し、後の公判審理において必ずしも有用性の保証は成立せず、最終的には、当該検知時に数値を確認したとする人証による第二次的・間接的証拠方法の採否が決め手になっていることは刑事訴訟審理の一般的な現実として当裁判所に顕著であるが、自白を前提としない否認事件にあっては、確認した数値を証言できる人証は、刑事訴訟審理における一方当事者(訴追側)に準じて考慮される警察官に過ぎない。そして、右のような証言内容は、例えば、無免許運転における運転行為の目撃のように(運転免許の有無は公文書により立証が容易である。)、直接、飲酒事実や程度の目撃を証言する類のものではなく、あくまで、機械的に読みとった数値を証言するものに過ぎない。

(2) これに加え、車両等の運転者がアルコールを飲酒した場合は、胃壁又は腸壁から摂取され体内に浸透し、血管、肺を通じて呼気として一定量が排出されるが、飲酒時と検知時の体内保有のアルコール濃度は、飲酒初期は上昇し、極大値に至って下降曲線を描くというように放物線状を描くことは公知の事実である。例えば、本件では、第一回目の飲酒検知において、警察官が0.25ないし0.3の数値を示したと認識するのに対し、原告は0.25ぎりぎりの数値しか示していないとの認識を表明していたのであるが、右のように双方の認識が相違して限界数値であったか否かの争点が予測される場合、本件のように運転時と飲酒検知時には多少の時間の間隔があることは否定できないから、右が時間的にもアルコール濃度の下降時の数値であったならば、運転時は右に示された検知時における数値を超えた数値のアルコールの体内保有を容易に推測できるのに対し、もし、これが上昇時の数値であった場合は、運転時には飲酒検知時における数値より低値であったことが推認され、飲酒検知器の表示する数値は酒気帯び運転における絶対的証拠とはいえないことになる。そして、このような事態は、机上の空論ではなく、実際の刑事公判審理で生起している事例が存することも当裁判所に顕著である。

(3)  そうすると、右のような場合はもちろん、否認事件にあって検知器の数値を裏付けするのは、当該運転者の飲酒の有無、摂取したアルコールの酒類、量、飲酒の時刻、飲酒場所と検問場所との距離関係等々の客観的証拠であり、捜査官としては、これらの客観的証拠の採証なくして十分な捜査を遂げられないことは明らかといわねばならない。

しかしながら、原告は、飲酒検知の実施前の時点では、警察官に対し、「飲酒はしてない。」旨虚偽の弁解をし、その後、検知管から飲酒反応が出て、初めて「そんなに飲んでいない。」「コップ一杯だけや。」などと容疑の一部を認め始めたものであり、そのような供述の変遷がある場合には、原告の弁解や否認内容に即し、飲酒に関する客観的裏付証拠を採証するとともに、被疑者である原告の初期の弁解供述を録取すべきことは捜査の常道であり、その必要性はいささかも減じていないというべきである。

(4) そして実際に、本件逮捕前の原告は、単に飲酒の事実を否認するのみならず、蓮井警部補に対して二度目の飲酒検知を要求しておきながら、これに応じて実施された飲酒検知でも小刻みにしか息を吹き込もうとはせず、さらに、酒酔い・酒気帯び鑑識カードの作成段階に至ってようやく飲酒事実の一部を認めたものの、飲酒場所や時刻、摂取アルコールの酒類、量というような、原告や、仮に飲酒仲間があれば仲間にのみ知られ、未だ警察官に判明していない客観的事実関係についての必要な捜査は、それが飲酒検問の現場での検挙だけに全くなされていない状況であったことが認められるところ、そのような原告が供述調書の作成にも応じることなくキャラバンからの離脱を謀ったことを併せ考えれば、仮に、原告が本件逮捕当時、真実、右のような捜査の対象に対する証拠隠滅の意図を積極的に有していなかったとしても、捜査が端緒に付いたばかりの警察官が、原告につき罪証隠滅のおそれがあると考えたのは無理はないというべきである。

(5)  加えて、前記認定事実のとおり、本件逮捕前の原告の行動、発言内容、飲酒運転自体は認識していたにもかかわらず同罪に対する反省が欠如している態度、及び飲酒運転のもたらす危険性と昨今の交通犯罪の処分に対する被害者・遺族らの不満等が高まっている社会的背景をも併せて考えると、酒気帯び運転の罪が明白な場合にこれを否認し、捜査・事情聴取等に協力的ではなく、酒気帯び運転の危険性・悪質性を認識せずに何ら反省の態度もないまま立ち去ろうとする原告に対し、現場の警察官が、本件においては原告の身体を拘束してでも早期の捜査を遂げる必要があると判断したとしても、到底不合理とはいえない。

(三) 小括

以上の警察官の判断は、いずれも一般通常人の見地からも相当な判断であって、右のような事情を総合的に考慮すれば、本件逮捕時には、罪証隠滅のおそれが認められるというべきである。その他本件全証拠及び本件に現われた一切の事情を検討しても、右認定を否定することは困難であって、これに反する原告の主張は採用することができない。

4  本件逮捕が恣意的ないし比例原則に反するとの原告の主張について

(一) 原告は、本件逮捕後、警察官から「検知管に割印をしなかったから逮捕した。」「素直さに欠けたから逮捕した。」などと言われたように、本件逮捕が恣意的であり、また、犯罪捜査規範を援用するなどして、酒気帯び運転における逃亡や罪証隠滅の防止という目的と逮捕という身柄拘束の手段を勘案すれば不要な逮捕、あるいは比例原則に反する逮捕であったと主張する。

しかしながら、警察官は、原告が事実を否認しあるいは封筒への割印をしなかったために直ちに逮捕したのではなく、捜査の協力に関して、原告に対して説明と説得を行っており、原告の反抗的な態度や検知管について署名・割印をしなかったことのみをもって本件逮捕に踏み切ったものとは認められないから、この点に関する原告の主張も採用することができない。仮に、本件逮捕後に、原告から本件逮捕の理由を問われた警察官が、原告主張のような説明をしたとしても、前記認定事実及びこれまでに判示したとおり、逮捕の必要性があって本件逮捕に至っていること、警察官は、同日、原告から事情聴取を行い、実況見分において引き当たり捜査を尽くした後、逮捕した日の夕刻には原告を釈放していること等に照らせば、その捜査方法を見ても、また、その他本件全証拠及び本件に現われた一切の事情を検討しても、警察官において、恣意的に原告を逮捕したものとは認められず、逮捕の必要性についての説明が若干不足していたにすぎないというべきである。

(二) また、犯罪捜査規範が、その二一九条において、「交通法令違反事件の捜査を行うに当たっては、事案の特性にかんがみ、犯罪事実を現認した場合であっても、逃亡その他の特別の事情がある場合のほか、被疑者の逮捕を行わないようにしなければならない。」旨規定し、その趣旨が原告の主張に出たものであることは前述のとおりである。しかし、右規範も、刑事司法の健全な運営を妨げたり、または、刑訴法により逮捕が容認されている場合に、警察官に刑訴法の解釈を変更してまで逮捕を行わないようにすることを指示したものではないから、犯罪捜査規範の存在が本件逮捕の必要性を否定する根拠とはならないし、前記判示のとおり、本件においては原告を逮捕する必要性があったことからすれば、右規定の趣旨に照らしても、本件逮捕が比例原則に反するとはいえない。

5  まとめ

以上のとおり、本件現行犯逮捕は適法であり、これまでの判示に反する原告の主張はすべて採用することができない。

第五  結論

したがって、その余の判断をするまでもなく、本件逮捕を違法とする原告の損害賠償請求も、刑訴法二一八条二項により採取された指紋等の返還請求もいずれも理由はない。よって、原告の本訴請求はすべて棄却するものとする。

(裁判長裁判官渡邉安一 裁判官三木素子 裁判官井上博喜)

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